最近どこかで、「医学は科学じゃない」という主張を見ました。動画で語られてたんだったかな。医療の現場で言えば、因果関係が一対一になってない、原因がよくわからないまんまどうにかなっていく、心因性というのもある、などなど。結局最終的には「医は仁術」なんであるというのが結論だった気がします。
まぁ小中高で習うような簡単で明確な科学でないことは確かです。数々ある現象を分析して場合分けして細かい点で見ていけば、その小さな観測範囲内では科学的に成り立つことがあるのでしょう。医学という「大きな範囲の科学」はそういった「小さな科学」の積み重ねで成り立っているとも考えることができる。なので科学的な側面はもちろんあるのです。
しかしそういった根拠になる論文やら証拠やら、これらは時代が経ってひっくり返ったりもするもので、完全に科学的に解明されたから大丈夫というものはあまりない気がします。論文が権威ある雑誌に掲載されたから正しいんだという話もなくて、「今のところは確からしい」と言われているに過ぎないと思います。そこからさらに追試され、議論と研究が重なって、「より確からしく」なっていく。「現場の科学」ってそういうものなんじゃないでしょうか。
こういう科学的な態度の積み重ねで、個人だけじゃなく歴史的にたくさんの人々の積み重ねがあって、科学は成り立っているはずです。
しかし昨今はそういった態度を抜きに「エビデンス」「科学的」「論文がある」などを鵜呑みにしている人が多い気がしています。というかメディアや政府までがそうなってませんか。
人間が悩むことって、大体が人間たちの間で起こることです。自然を相手に発生するような困難は、悩んだって仕方が無い。先人の知恵を借りて乗り越えるか、諦めて過ぎ去るのを待つぐらいしかできません。しかし人間の決めたルールだったり(法律や国家間の話もみんなそう)、人間関係だったり、結局人が何か言い出して従わせるようなことにしか悩みの原因はないように思います。
でもまぁ、人間が決めたことなら絶対じゃ無いんだから、なんとかして変えていけばいい。それに伴う困難もまた人間が決めたことだったりするもの。
悩みは人の中にしかない、と、まぁこれもどこだったか忘れましたが、養老孟司先生だったか、そういうことを言ってた気がします。仏教の悟りとかそういうのもこういう方面の考え方なのでしょう。他人がどう考えてるのか悩む自分、その自分の物事の捉え方、枠、フレームのようなものが、悩みを生む。
「だったら見方を変えればいいじゃないか」というのは自己啓発的ですが、それにも限界はあると思います。なぜなら、「それは違う」と思ったことに対して、周りの人が、世の中の人が圧倒的に「わかってない」場合です。こうなっちゃった人が山に籠もって世捨て人になるのかも。だけど、あきらめきれないことだってあるでしょう。そういうときに、どうしたらいいのか、悩みます。
去年、そんな話を飲み会でしていたら「チ。―地球の運動について―」を勧められました。年が明けて、Kindleで小学館50%ポイント還元セールがあったので読みました。内容は天動説以外認めない宗教に対していかに地動説が対抗していったかという、文にしてみれば軽そうですが、そこに拷問や死が積み重なりまくる重たい話です。
古くは宗教的な「教え」、今では「科学である」ことを信奉した人たちが、異端を攻撃する構図、これはとても気をつけておかねばならないことだと思います。
昔、水俣病という公害がありました。なかなか原因が確定しない中、東京工業大学の教授が別の説を唱え、そちらが支持された結果、真の原因究明が遅れたということがあったそうです。恥ずかしながら私は最近になってから知りました。話の一部は東工大の特命教授になった池上彰さんが、東工大のページに載せています。
今なぜ東工大生に教養が求められるのか 池上彰のリベラルアーツ教育のススメ | リベラルアーツ研究教育院 News | Science Tokyo リベラルアーツ研究教育院
まぁ、池上彰さんもテレビ番組で片寄ったことを言ってたりしますけどね。それぐらい、話は自分が確からしいと確信するまで疑ってかからねばならないのだと思います。
しかし、疑ってばかりじゃキリがない。全部が全部自分で調べて確信を持つのは大変です。だから、ある程度の専門的な知識を持っている(であろう)人の言うことを信じて取り入れていくのですが、常に他の情報と合わせて多角的に見る姿勢、これはとても難しい。そして答えが無い。答えが無い中である程度の確からしさに載っていく覚悟がいる。そういう人を探し出すには、単にエビデンスだ、科学だ、論文だ、ではダメなのです。その主張している人の生き方、背景、態度までも見て、共感して、乗っていかないといけない。もちろん時には距離を置いて冷静になることも必要です。
近年マスコミは正しいことを言っていないと考える人が増えているようですが、じゃぁネットが正しいことを言っているかというと、そうではない。ネットをひとくくりにしていることが間違っている。名も無い多数の人が勝手に各々言っているだけなのだから、余計に正しさを見るのは難しくなっているのです。だから、そういう情報の波を乗り越えるのに、哲学だったり文系的な学問をもっていかねばならないと思います。
文系の方が上だっていうんじゃないですよ。文系も理系も結局どっちも必要になるって話だし、なんだったらどっちもいらない、単に人を信じる信じないみたいな話かもしれない。一緒にこの国で生きてる人同士だという連帯感みたいなものを感じられるかどうかかもしれない。
こういう態度はなかなか「保守」的だと思います。みんなで共感をもって「こっちだよなぁ」と思える選択を繰り返していくより他ないのかもしれません。